責任の所在

季節外れの暑さもおさまり、秋らしくなってきました。忙しかったり、暑かったりして長らくお休みしていた朝のランニングを久しぶりに再開しました。ちょっと肌寒いこの感じ、いいですねー。

これからは、また短い距離で良いから走ろうと思いました。

 

さて、「責任の所在」

近頃は、こちらの責任にされても困るから、とややこしい取り決めがあったり、個人情報保護の観点から、と手続きがややこしくなったり、良いような悪いようなことが色々あります。

 

学校という所は、誰しも必ずお世話になる所。

そこには学ぶ人(子ども)が通い、先生がおられる。

本来の目的は、日本国に住む子ども達に等しく教育を受けさせる、というもので、主役は子どもであると思います。

が、実際のところどうなんでしょうか。

 

「いじめ」問題

永遠のテーマとでも言いますか、私が子どもの頃もあったし、歴史書を読んだりしても出てくる、人がいれば悲しいけれど起こってしまう、いつになってもなくならない問題。

 

小さな子どもはわがまま。

譲り合う事は難しく、自分のやりたい事をやりたいものです。

そこで自我がぶつかりあうことも多い。

それは仕方のないこと。

そこから、譲り合ったり、他人を思いやったりすることを学んでいき、相手の立場に立った考え方ができるようになったりしていくんだと思うのですが、この過程、うまく大人達は導けているのでしょうか。

 

子どもが小学生ということもあり、ママ友の話も含め、子ども、学校、親、関わる大人達について考える事が色々あります。

学校で何か問題があったとき、何か原因を追及して、解決法を探りますが、何故、どうして?をどんどん追求していくことは、正しい解決法かどうか、私は疑問を持っています。

 

追求する先には、原因をはっきりさせる、という結果がついてきます。

これは多くの場合、人であったりします。

親は我が子を守るから、この矛先は学校に向く事もしばしば。

他人の子どもに向くこともあるかもしれません。

しかし、そうやって結果がはっきりしたらそれで良いんでしょうか。

 

多くの親は、他人と仲良く、傷つけたりしないようにと教えていると思います。先生や他の大人達も同じ。

それなのに、この「犯人探し」のようなやり方。矛盾していないでしょうか。

 

親も学校の先生も子ども達も、誰かを傷つけようと意図的に何かをし始めることは実は少ないように思います。

でも、何かのつまずきがあって、おかしな方向へ進みだす事が結構ある。

大事なことは、大人は子ども達に毎日元気で楽しく過ごしてもらいたいと思っているということ。

それが、ちょっとしたことから違う結果を招いてしまうこともある。

 

「責任の所在」

その追求は、誰のためなのか

大人はよく考えて、行動を起こさないといけないと思います。